現地から実際に書き込んだ行動日記
2001年04月01日(日)
■メンバー揃う
 
member 午後6時、ネパール・カトマンズにあるホテルチベット前のバーで、今回のチョモランマ遠征に参加するメンバーが一堂に会した。参加メンバー9人、ガイド4人の総勢14人の隊となる。シェルパ頭のロプサンをはじめとするシェルパ8人はベースキャンプで合流する。
 まず隊の紹介をする。

【ガイド】

ラッセル・ブライス(ニュージーランド):隊のリーダーでもうすぐ50歳になる熟練ガイド。エベレスト・チベット側の主。シャモニー在住。

アンディー(アメリカ):長身で落ち着いた雰囲気をもつ。マッシュルーム型のヘアスタイルでラッセルの片腕。エベレスト2回登頂。コロラド出身43歳。

クリス(アメリカ):アンディーとは対極的に陽気な性格。ネパール側からエベレスト登頂。37歳。

アズモフ(デンマーク):ブロンドの長髪で、アイドルのような顔をしている。グリーンランドの鋭鋒やパキスタンの未踏峰に登頂した経験をもつ。ネパール側からエベレスト登頂。シャモニー在住27歳

【参加メンバー】

ロイ(イギリス):ホテルを経営していたが今は引退。チョオユー登頂。63歳。

マルコ(フランス):体中にピアスをしており、今回はスケボー持参。チベットの空港で中国の公安を前にして滑走している姿に頼もしさを感じる。だぶだぶのパンツにスケーターシューズを履き、見かけは普通の若者。一応学生。今回隊の中では最年少でぼくが最も注目している面白いやつ。チョオユー頂上からスノーボードで滑降した経験をもち、実はハードコア。シャモニー在住22歳。

オーウェン(アメリカ):インターネットビジネスに従事しつつ、ハードボイルド小説を1冊出版している。今回は恋人のスザーンをベースキャンプまで同伴。ニューヨーク在住32歳。

ハイメ(グアテマラ):セブンサミットのうち6つ登頂。グアテマラ初のセブンサミッターを目指し、グアテマラでは国民的有名人らしい。会ってびっくりしたが、ぼくは南極のパトリオットヒルズでビンソン登山の前に出会っていた。エベレスト2度失敗、チョオユー1度失敗の経験をもつ。40歳、どうでもいいが23歳の奥さんがいて現在妊娠中。

エレン(アメリカ):スキーのコーチをしており、有名なアドベンチャーレース「エコチャレンジ」に2回出場。チベットのシガツェで行われた高地マラソン大会も完走している。チョオユー登頂。コロラド在住42歳。

エヴェリーン(スイス):スイスでは山岳ガイドをしている。今回登頂するとスイス女性初のエベレスト登頂者になり、国民的期待を背負い参加。長身180センチに届くほどの長身、32歳。

ロバート(スイス):エヴェリーンと共に山岳ガイドで、彼女の登頂をサポートするために参加している。ブロードピークなどいくつかの8000m峰にすでに登頂しており、参加者の中では一番強いと思われる。今回はあくまでエヴェリーンを登頂させることに徹するらしい。スイスでは名のしれたカメラマンでもある。48歳。

ジェス(アメリカ):男性。ハリソン・フォードにそっくりでダンディなおじさま。本職は山岳カメラマンで、国内外のハードな山からスキーで滑走することを趣味とする。

 以上が隊のメンバーである。読んでわかるように非常に個性的な面々が集まった。隊の半分以上が8000mを経験したことがあり、ラッセルに言わせると「例年になく国際的でかつ強力なメンバーが集まった」とのこと。ぼくはこのようなメンバーの中で果たしてどこまでいけるだろうか。うーむ。
 バーでの顔合わせの後、夕食に誘われたがぼくはキャンセルした。三浦雄一郎さんから電話をもらい日本食レストランでの夕食に誘われていたのだ。そこには野口健君も来るというので、誘われるままにレストランに向かった。タメル地区の近くにある「槙木(まき)」という店だった。
 タクシーに乗ってカトマンズの風景を眺めていると、ぼくがはじめてネパールを訪れた6年前の記憶が段々蘇ってきた。あのときぼくはまだ高校二年生で、はじめての海外一人旅ということもあり毎日が楽しくて仕方がなかった。(今もそうなのだが・・)。色々な面でインドに疲れ、陸路で国境を越えてネパールに向かった。確かカトマンズには夜中についたのだが、客引きや物乞いもインドのように強引ではなく、緊張感がほぐれたのを覚えている。あの路地で野良犬に追いかけられたなあ、などと思い出に耽っているといつのまにか店に到着していた。エレベーターで最上階にあがり扉が開くと、大テーブルに10人ほどの日本人が談笑しているのが目に飛び込んできた。
 と、もっと詳しく書いていきたいが、日暮れが迫っているので詳細ははぶく。今回、野口くんの隊は日本人4名(うち女性2人)、韓国人1人、シェルパ30人という大がかりな隊だった。清掃が目的なので頂上には登らず、最終キャンプまでいく予定だという。5000万円かかっているという。そんなお金があったらPole to Poleができてしまうなあ、などと思ったが口には出さなかった。野口くんとぼくは4歳ほど年齢が離れている。二人で馬鹿話もたくさんしてとても面白くいい人だった。が、やっぱりぼくとは価値観も違うようだし、別の世界に住んでいる方だと感じた。ベースキャンプで再び会う約束をした。日本食、食べさせてもらえるかなあ。
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2001年04月02日(月)
■お買いもの
 
 朝から今度でる本の前書きと後書きを書いていた。あとがきはオーケーが出たが、前書きは書き直しを命じられる。午前中のうちにベースキャンプに送る荷物を整理して、プラスチックの大樽(英語ではバロウという)に詰め込んだ。衛星電話をチベットに持ち込むには本来なら許可が必要だというので、ラッセルはラサに持って入るよりも大樽の中に隠してBCまで一気に送ることを勧めた。指示に従い大樽に詰め込んだが、これでBCに着くまでメールを送れないかもしれない。うーむ。
 午後から日本に忘れてきてしまったものを買い足すため、安宿や旅行者が集まるタメル地区に向かった。ここではありとあらゆるものが揃う。その昔、ぼくもタメルのフジゲストハウスというところに泊まっていたっけ。
 まずヘッドランプを日本に忘れてきたので、片っ端からキャンプ用品を扱う店をまわった。どういうルートで入ってきているのか謎に包まれているが、とにかくペツルの新品のヘッドランプを見つけて購入。偽物をつかまされてはたまらないので、念入りにチェックした。さらにデジカメの電池やらTシャツやら、出発前のどたばたで忘れてきた数々のものを買い揃えた。
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2001年04月03日(火)
■チベット到着!
 
 朝5時起床。5時30分に朝食を食べ6時に空港へと向かった。昨晩は徹夜で作業していたがうっかり少しだけ寝てしまった。
 9時、カトマンズ発ラサ行きの中国西南航空の飛行機に乗った。飛行機の窓からネパールの盆地を囲むようにそびえるヒマラヤを見た。すべてを見下ろす圧倒的な高さ。乗客が急にざわめきはじめたと思ったら、エベレストが視界に入った。「あれか・・・」カメラのシャッターを切りながら、ぼんやり考えた。人はなぜ山に登るのか。登りたいから登るのだ。たまたま地球上にことさら出っ張った部分があり、そこがヒマラヤと呼ばれ、ある人々にとっては憧憬となり、ある人々にとっては生活の場であり、神の住む領域でもあった。誤解を省みず言うならば、エベレストに登るということ、それ自体は注目されることでも大袈裟なことでもない。個人の興味の問題だ。ぼくはエベレストに向かっておじぎをし、挨拶した。「今からそちらに向かいます。どうぞよろしくお願いします」
 ラサのクンガ空港に着いたのはちょうどお昼頃だった。空港でマルコはスケボーを乗り回し、背広を着た中国人観光客(?)は唖然としていた。空港からバスに乗ってラサ市街へと向かう。山や平原の色彩が薄く、人もまばらで閑散としていた。ペルーの砂漠を思い出した。バスに揺られていると雪が舞いはじめた。ぼくは日本で雪に見送られ、雪に迎えられることになった。
 ラサではサンライトホテル(日光賓館)という所に泊まる。ここで3泊し、シガツェへと向かう。午後少し観光をして早めに就寝。
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2001年04月04日(水)
■遙かなる人間の大地
 
 朝8時からホテルに隣接するレストランで朝食だったが、チームの半分以上は起きてこない。集まったのはハイメ、エレン、オーウェンとその彼女、ぼくの5人だった。お粥などが並ぶ中国風の質素なメニューに、公言はしないものの皆のえもいわれぬ不満が漂う。チベットの食事が肌にあい嬉しがっているのはぼくだけのようだ。
 誰かがパンとバターを注文すると、干からびて縮んだパンが出てきた。西洋人にとってチベットでの食生活は耐え難いものがあるだろう。
 朝食後、ラサの象徴ともいえるポタラ宮にバスで向かった。ポタラ宮の前には中国の旗が翻る閑散とした広場があった。人のにおいがしない空間だった。荘厳なポタラ宮とは対照的である。
 ポタラ宮に向かって左側にある入り口を入り、急な坂道を登っていく。コーディネーターのツェリンは車でいくことを勧めたが皆の意見で歩いていくことになった。さすがにエベレストに登ろうというだけあって、みんなかなりの早足だった。標高3600メートルのラサで坂道を走るように登ったら、息が切れないわけがない。ツェリンは苦笑しながらぼくらのペースについてきてくれた。
 ポタラ宮は1959年3月にダライ・ラマ14世がインドに亡命するまで約300年にわたり、チベットにおける聖俗両界の中心地だった。その内部は迷宮のように入り組んだ廊下が続き、歩み続ければ地の底まで辿り着きそうな感さえある。
 ポタラ宮の外観を占めるホワイトパレス(白宮)はダライ・ラマの住居であると同時に政治を執り行う場所で、中心にそびえるレッドパレス(赤宮)は歴代ダライ・ラマの霊塔など宗教に関わる部屋が多い。ぼくらはいくつもの仏像や宝座などを見て回り、上へ上へと進んでいった。これは観光案内ではないので、詳しい描写は省くが、内部に納められた仏像の類は絢爛そのものだ。人間の手によって作られた像は、皆が祈り祀ることによって神になりうる。ぼく自身はどの宗教にも属していない(と思っている)が、何を信じるようになるかは自分の意志とは関係なく、生まれる環境が大いに影響してくるだろう。
ポタラ宮の屋上からラサの市街を眺めた。整然と区画された道筋を少し外れると複雑に入り組んだ路地が続いている。市街を乾茶色の山々が連なり、頭上には突き抜けるような青空がある。この空は宇宙に続いている。
 昼飯は西洋風のメニューがあるレストランに行った。ぼくは口を挟まなかったが、皆の総意だった。チベットまで来てまずいピザを食べるよりは、餃子でも食べた方がよっぽどましだと思うのだが、彼らの気持ちもわからないではない。ぼくは焼きそばを頼み、他はオムレツやフライドポテト、ピザ、などを頼んでいた。フライドポテトは油でぎとぎとに濡れており、ピザは申し訳程度に粉チーズみたいなものがふりかけられていた。
 レストランで解散し、帰り道にインターネットができる店を発見したので、ぼくのパソコンがつなげるかリサーチがてら寄ってみた。入り口に芋虫のような字で「日本語インターネットできます」と書いてあり、それに惹かれたのだ。確かにホットメールは日本語でメールを打つことができ、日本語のフォントも入っていたので、ここからウエブサイトの掲示板に書き込むこともできた。しばらく経つと、日本人と思われる小柄な女性が入ってきた。目が合うと、向こうもぼくが日本人とわかったようだった。その女性は川上範子さんといった。美大をでて本や雑誌のデザインをする会社に5年勤めた後会社を辞め、中国の成都経由でラサにやってきた。これから陸路でカトマンズに抜け、インドのダラムサラにあるNGOで1年ほどチベット関係の雑誌を作る手伝いをするという。ふむ、なかなか面白い人だ。ぼくは彼女にチベット関係のガイドブックなどを見せてもらいながら、色々話をさせてもらった。ぼくがここに来ている事情を説明すると、「以前ラジオにでてませんでしたか?」といわれた。彼女はぼくが出演したJ-WAVEのラジオ番組を毎回聞いており、テレビでぼくのことも見たという。こんなところでぼくを知っている人に出会うとは思わなかったのでびっくりした。
 夕食を一緒に食べ、ガイドブックのラサやシガツェのページをコピーさせてもらう約束をしていったん別れた。一度宿に戻り、公衆電話から日本に国際電話を試みると、運良くつながった。郵電局(というものがある)まで行かないと国際電話は無理と本に書いてあったので、状況は刻々と変化しているのだろう。2分ほど話して26元(3ドルくらい?)だった。
 待ち合わせ場所のインターネットカフェ前で待っていると、少し遅れて川上さんがやってきた。ガイドブックを宿に忘れて取りに戻っていたらしく息切れしていた。すでに10日ラサにいるので、走っても頭痛などはなく息切れ程度で済むようになったといっていた。ガイドブックのコピーをとり、川上さんにつれられてジョカン(大昭寺)方面に向かった。ジョカンの周りは、寺を中心として円状に連なる賑やかなマーケットになっており、人々はなぜか時計回りにそこをぐるぐる周りながら買い物を楽しんでいる。ぼくらもぐるぐる回る人の列に加わり、話をしながらゆっくり歩いた。
 「チベットってもっと宗教色が強くておどろおどろしい所かと思っていたけど、想像とは違ってた」と彼女はいった。町中ではビリヤードと賭トランプが流行り、昼間からせまい路地は大にぎわいだった。また、お祈りの際に思いっきりあくびをしているなまくら坊主もたくさんいる。
 人混みの中でダライ・ラマの話をしていると前を歩いていたおばあちゃんがニコニコしながらゆっくりこちらを振り向いた。そのおばあちゃんは手持ちのマニ車(アルミや木などでできた筒の中に印刷された巻物状の経文を入れたもの。1回まわすと1回経文を読んだことになる)をまわしながら、ぼくらの顔をのぞき込み何もいわず笑顔を浮かべている。どうやら「ダライラマ」という言葉に反応したらしい。寺の内部やあちこちの店などでパンチェン・ラマの写真はよく見かけるが、ダライ・ラマの写真はほとんど見かけない。公には信仰が禁じられているのか、人々の心の中に生きているのか・・・。
 ジョカン(大昭寺)の中に入り、最上階に上がった。屋上からは後光の差したポタラ宮が見えた。日は暮れかかり、太陽はぼくの身体を突き抜けるように最後の光を放っていた。寺の前では数百キロの道のりを歩いてきた巡礼者たちが五体投地をしながら祈りを捧げている。マーケットをまわる人の列が熱気を発し、太陽の光が人々を包み込んでいた。美しい光景だった。遙かなる人間の大地。
 階下に降りるとちょうど僧侶が祈っている時間だった。薄暗い寺の中を時計回りで一周し、敬意を払うため神様に挨拶をした。川上さんが知り合いになったお坊さんがいるというので、祈りが終わるのを待って、そのお坊さんに話しかけてみることにする。身長は160センチもなくお地蔵さまのようなかわいらしいお坊さんで英語を話すことができた。彼はお腹が空いているようで、挨拶もそこそこに、寺内部にある一般人は入ることができない部屋に通された。そこは彼が寝泊まりしている部屋で、畳4畳ほどの広さがあった。コップにお湯をついでもらい、しばし彼と話す。彼は今から16年ほど前に家族と別れ、寺に住み込んでお坊さんの道に入ったという。
 お坊さんと別れ、寺をでたのは21時を過ぎていた。ぼくらは暗闇の中、路地を練り歩き、レストランに入って夕食を食べた。言葉が通じないので、ぼくは「拉麺」という文字を指さし、川上さんはノートにご飯とスープの絵を描いて注文した。ぐらぐらする椅子に腰掛けて彼女は言った。隣では小学校低学年の男の子が裸電球の下で文字を書く練習をしていた。「ダラムサラに行く前にチベットに来て人々の生活に触れられてよかった。この人たちのためだったら、働こうという気持ちが湧いてくるもの」。ダラムサラで一年を過ごすのはそんなに楽なことではないだろう。彼女は旅にでたことを簡単に話すが、少なからず決心も必要だったはずだ。彼女のこれからの旅路はきっと実り多きものになるに違いない。いつか再会するのが楽しみだ。ホテルまで送り、握手をしハグをして別れた。どうかお元気で。
 宿に帰ったのは23時近くになっていた。同室のハイメはすでに眠っていた。ぼくも倒れ込むように横になった。
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2001年04月05日(木)
■ラサから送信
 
 朝起きてからお昼までずっと原稿の書き直しをしていた。チベットまで来て雑務に追われている自分が情けないが、はじめて出す本のためだ。最後まで手が抜けない。
 どうにかラサからメールを送ろうとあらゆる手を考えた。ラサには多くの商店に公衆電話が置いてあり、はじめはそこで試した。スペイン語でさえインターネット接続について説明することに苦労するのに、チベット語で説明などできるわけがない。ぼくは店の人から中がよく見えないようになった電話ボックスを選び、電話線をパソコンにつなげて北京のアクセスナンバーにかけた。一度かかったのだが、店の人に見つかってあえなく失敗。北京に電話をかけるのと同じで、電話代もきちんと払うので何の問題もないはずなのだが、やはり理解してもらえない。
 次に郵電局といわれる郵便局と電話局が合体したような場所に行った。「北京に電話をかけます」と受付の人にいうと番号札を渡され、その番号の部屋で電話をかけるようにいわれた。これは中南米にあった電話場と同じシステムである。またさっきと同じように電話線を抜いてパソコンにつけた。またも人がやってきたが、あせらず「正当なことをしてるもんね」という顔で、パソコンの画面などを見せ、「北京に今から電話をかけるから」と極めて冷静に言った。英語を多少話せる郵電局の女性は怪訝な顔をしながらも「試してみなさいよ。きっとできないから」という。結果は成功だった。(昨日一気に送った日記はそこで送ったものだった)。一気に安堵した。送らなくてはいけないメールもたくさんあったし、日記も送っていなかったのでずっと気をもんでいたのだ。
 やっと晴れ晴れとした気持ちになり、近くの店に入って懲りずにまたラーメンを注文した。注文したというより、言葉が通じないので、人が食べているものを指さしただけだ。運がいいのか悪いのかわからないが、ぼくが店にはいるときは誰もがラーメンをすすっている。ラーメンはとてつもなく辛かった。エベレストに行ったら汗が吹き出すような辛いラーメンも食べられなくなるだろうと思い、必死につゆまで飲んだ。
 夕方から再びジョカンに向かった。明日にはシガツェに向かうので、ラサにきちんとお別れを言いたかった。輪タクを拾い、埃舞うラサの大通りを眺めながら、またゆっくりラサを旅したいと思った。町には漢字が溢れているので、ぼくにとっては旅しやすい町だったし、いくら観光地化されてきたとはいえまだまだ人もすれていなかった。些細なことから中国とチベットの微妙な関係について感じるときもあり、もっと長く深く旅をすれば色々なテーマが浮かんでくるという直感もあった。
 ジョカンの前では、すでに日が暮れたというのに五体投地をしている人々がたくさんいた。ぼくは後ろから彼らの姿を見つめながら、祈る対象があるということはもしかしたら幸せなことなのかもしれないと思った。
 人が少なくなったマーケット、バルコルに向かった。屋台は軒並みしまわれ昼間の喧噪とはうって変わって閑散としていた。小さな男の子が買い物客や商売人の落としものを拾い集め、背中の段ボール箱に入れていた。ぼくは道に迷ってみようと思い、バルコルを外れて入り組んだ路地を先へ先へと進んでいった。頭上には満月が浮かび、露店の明かりが届かないところでは、わずかにぼくの足下を照らしてくれた。ほとんどの店は閉まっていたが、一軒の店から炒め物のいい匂いが漂ってきた。ぼくは誘われるままに店に入った。店の一番奥厨房前のテーブルに親子3人が座ってラーメンと水餃子を食べていた。「タシデレ(こんにちは)」ぼくはその親子の横に腰掛け、つられて同じものを注文してしまった。メニューがないので身振り手振りで何があるか聞いたがだめだった。しかし、そのおかげで店の人も親子もニコニコして「まあとにかく座わっとれ」といい、お茶をだしてくれた。うーむ、また激辛ラーメンか、と思いつつ、実は結構好きになっている自分に気づく。汗まみれになりながら大盛りラーメンと20個くらいある水餃子を食べ終えた。親子は幸せそうな笑顔を浮かべて帰っていった。
 ラサの一日が終わろうとしていた。いよいよぼくは明日ラサを発つ。
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2001年04月06日(金)
■シガツェへ
 
 朝8時、ランドクルーザー4台に分乗して、ラサを発ちシガツェへ向かった。
途中いくつかの町や関所らしきところを越え、深緑の美しい川沿いに車は走っていった。この川がヤルツァンポ川だろうか。まだカヌーやラフトでさえも全流を下ったものはいないだろう。大学の探検部の連中がここの全流を下ることを考えていたが、許可やら何やらで立ち消えになったのを思い出した。
 道の中盤はかなりの凸凹道で常にぼくらの体は揺られていた。
チベットで2番目に大きな都市、シガツェに到着したのは13時頃だった。シガツェホテルというかなり立派なホテルに泊まっている。ラサのサンライトホテルよりも部屋はきれいだ。また部屋の電話から外線につながるので、部屋からメールを送ることができる。
 今日ですべての原稿を手放した。こうやってゆっくり日記を書けているのもそのためだ。今までの日記はは徹夜中に唸りながら書いていたので、雑な文章になってしまい恥ずかしい。あと原稿に関しては初校と再校が送られてきて見直す作業が待っているが、まだしばらく余裕があるだろう。
 ビュッフェ式の昼食を食べ、希望者を募りタシルンポ寺に向かった。一緒にいるメンバーについては後々詳しく書いていく。恐らくエベレストでは同じ場所に滞在している時間が長いので人のことくらいしか書けなくなると思う。しかし、それも衛星電話経由の通信がうまくいけばの話だが。
 タシルンポ寺はラサのダライラマ政権としばしば対立したパンチェン・ラマが住持を務める寺院である。この対立はチベット支配を狙ったイギリスと中国に政治的に利用され、結局チベット動乱でダライ・ラマがインドに亡命、パンチェン・ラマは北京で中国政府の首脳となった。タシルンポ寺は今も1000人近い僧侶が暮らし、チベットで最も活発な寺院だという。
 一人だったら色々坊さんと話したりできたかもしれないが、ほとんどツアーみたいなものなので、少しばかり歯がゆい。大きな仏像を見たりしたが、詳述はしない。次の機会にとっておこう。
明日早々にシガツェを発って、ティンリーに向かう。ティンリーではようやくチョモランマ(エベレスト)と対面することになるはずだ。
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2001年04月07日(土)
■ティンリーに電気なし
 
 7時起床、メールをチェックして8時出発。シガツェを出て、チョモランマBCへの起点となる町、ティンリーへと向かう。4台のランドクルーザーは砂埃を巻き上げ、一路東を目指した。途中5200メートルの峠を越え、再び少し標高を下げていく。さすがに平地と同じ状態とはいかないが、特に身体に変化はなく体調はいい。到着までに水を3リットルくらい飲んだ。途中小さな町を通り、チョモランマとチョオユーが見えるティンリーに着いたときには午後6時をまわっていた。現在BCに車で向かう際にはシェーカル、通称ニューティンリーを拠点にすることが多いらしいが、ぼくらはオールドティンリーを使う。
 ラッセルとここティンリーで再会した。ネパールでの様子はあまり詳しく書いていなかったので唐突だが、ラッセルはぼくらに同行せず、カトマンズから陸路でチベットに入っていた。プラスチックの樽に入れた大量の荷物と幾人かのシェルパをチベットに通すため、国境での手続きを行わなくてはならなかったのだ。ラッセルは面倒見のいい性格で、何か尋ねればすぐに対応してくれる。ラッセルが指示する隊の登り方やタクティクスについては賛否両論あるようだが、それは自分で確かめてみようと思う。
 ティンリーは想像以上にさびれた町だった。泊まる宿には電源がないので夜にはジェネレーターで電気を作り、電話などはもちろんない。これから日記を衛星電話経由で送るつもりだが、うまく送れるか心配だ。このような状況なのでメールの返信や掲示板にもなかなかメッセージを送れないかもしれないが、しばらくのあいだ様子を見てほしい。
 ラッセルによるとチベットの発展は予想以上に早く進んでいるらしい。ネパールとの国境からティンリーに至るまでの道のりで、去年はなかった電話線や用水路などがあちこちで見られ、小さな町の様子もだいぶ様変わりしてきたという。中央からお金がまわってきているとのことだ。ここティンリーも何年か後にはどうなっているかわからない。
 ラッセルとシェルパは明日BCに入り準備を始める。ぼくらはここティンリーに2泊してラッセルたちの後を追うことになる。これから町に一つあるという公衆電話を探し、コンピュータをつながせてくれるか相談してみようと思う。
 そろそろ日が暮れてきて、部屋が暗くなってきた・・。
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2001年04月08日(日)
■沈黙の大地
 
 昨晩、日記を送った後、シェルパたちとはじめて顔を合わせた。全部で確か11人だったと思う。そのうち3人は台所をしきる役割をもつシェルパ。みんな思った以上に若い。精悍な顔つきをし、目からエネルギーが溢れでている。サーダー(シェルパ頭)はロプサン、日本人と同じようによくお辞儀をし、見るからに礼儀正しく頼りになりそうな男だ。年の頃は20代後半、もしくは30歳ロプサンは他のチームのシェルパからも信頼され、エベレストにも数回登頂している。ラッセルと遠征を組んだ回数は15回以上になるらしい。それぞれのシェルパについてラッセルが紹介をしてくれたのだが、書き留める時間がなかった。覚えているままに書く。エベレストに史上初めて10回登頂した伝説のシェルパ、アン・リタの息子がいた。眼鏡をかけ、人の良さそうな浪人生という風体だが、すでにエベレストに数回登頂しており、父親の血を受け継ぐ優秀なシェルパらしい。他にもロプサンの兄など、登頂歴から想像すればかなり優れたシェルパが揃っているように思う。
 昨秋チョオユーに登ったマルコやエレン、以前もラッセルの隊に参加したことのあるジェス、ハイメ、ロイなどはすでに知り合いのシェルパが何人かおり、挨拶を交わしていた。これからシェルパの名前などを覚えて、話を聞いていこうと思う。
 シェルパとの顔合わせの後、通りを歩いた。空には満月が浮かんでおり、道を歩くには十分な光を照射していた。どこで見ても月は同じはずなのに、チベットの月光はなぜこんなにも力強いのだろう。天は青白く染まり、それをとりまくように星々が輝いていた。
 ぼくらが泊まっているエベレストビューホテルの部屋は土塀でできており、夜はかなり冷える。はじめて寝袋を引っ張り出し、くるまった。23時頃就寝。

 9時から朝食。この宿には毎年多くの登山客が訪れるらしく、朝食も西洋風にアレンジされており、ゆで卵とパンケーキとジャムががでてきた。ゆで卵3つとパンケーキを食べた。今日は一日フリーなので、皆思い思いに過ごすことになる。近くの山に高所順応を兼ねて登りにいくものや、日記などを書いて過ごす者がいた。
 同じ宿にエベレストを目指す2つの遠征隊も一緒に泊まっている。今年のエベレスト北側(チベット側)、チョモランマ登頂を目指しBCに入る隊の数は、なんと29にものぼるらしい。全部で160人から180人がBCに入ることになり、ちょっとした村の様相を呈すことになる。ぼくらがBC入りするのは早いほうだが、すでに3隊がBC入りし、その一つのアメリカ隊はすでにノースコルを越えてC2(7400m?)まで入っているとのこと。ラッセルは天候などに触れつつ、アメリカ隊の早さに疑問を投げかけていた。果たして今シーズン最初の登頂となるか。
 ぼくはティンリーに隣接した小高い丘に向かった。ここは古い城塞跡で、丘のてっぺんには赤い煉瓦の砦が残っている。ここからティンリーの町並みを一望した。ティンリーの南には人民解放軍が駐屯しており、中国の旗が翻っていた。
 現在ダライ・ラマ14世への信仰が禁止されているのを今頃になって知った。ラサのジョカンで出会った僧が14世の写真をもっていたり、町中でおばあちゃんが「ダライ・ラマ」という言葉に反応して微笑んだことを思い出し、14世はまだまだチベット族の心の支えになっている部分があることを考えた。
 1959年、ラサで起こった北京政府に対する大暴動で、ダライ・ラマ14世はインドのダラムサラに亡命した。これ以後チベットは完全に中国政府の統治下に入り、1965年にはチベット自治区政府が成立して中国の一自治区となる。それから寺院の破壊や、僧侶が環俗させられたり、人民公社を作らされたりとチベット族の意に反する政策が実行されたりもした。
 「セブンイヤーズ・イン・チベット」などが公開されて、フリーチベットの運動などが盛んになり、チベットは一時世界的なブームとなった。ビョークやビースティーボーイズが参加したチベタンフリーダムのコンサートやCDはぼくも日本で目にしていたし、ブラッド・ピットが政治的な発言をするのを聞いたことがある。チベットが若者のファッションとして流行し知名度があがるのは結構だが、そのような商業ベースにのることによってぼくなどはある種の胡散臭さをほんの少し感じてしまう。お金儲けに利用する人々が必ずでてくるからだ。インドの亡命政府でダライ・ラマ14世はいかように考えているのだろう。チベットの状況が変わる日はくるだろうか。
 丘の頂上に腰掛け、遮るもののない太陽の光を真っ向から浴びた。目の前で大きな野兎がガレ場を駆け下っていった。鳥のさえずりが、牛の鳴き声が、犬の吠え声が、空に震えている。ロバの首にかけられた鈴の音がこだました。この沈黙した大地の四方八方から生き物の息吹を感じる。息づく大地の鼓動のようだ。胡椒色の荒野はどこまでも続き、神が住む峰へと続いていった。
 ぼくの正面にはチョモランマの黒い山容が見える。頂上は猛烈な風が吹いているらしく、頂にかかった雲が水平になびいていた。あの山でぼくは一体何を見るのだろう。扉の向こうにあるものは何か。
 明日ぼくらはロンボク寺院を通り、いよいよチョモランマの足元、BCへ到着する。
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2001年04月09日(月)
■ベースキャンプ到着!
 
 朝9時にティンリーを発ち、ベースキャンプへと向かった。道はさらに悪路になり、というかほとんど道ではなくなり、途中頭を車の天井に何度もぶつけながら、奥へと進んでいく。ランドクルーザーは川にはまりスタックしながらも何とか前進していた。
 途中ヤクの群と数人の巡礼者(?)に出会った。砂の荒野と岩山が広がっているだけで本当に何も無い。
 世界で一番標高の高い場所にあるというロンブク寺院に着いたのはお昼頃だった。後ろにはチョモランマが見える。飛行機から撮ったチョモランマの写真は雪で覆われていたが、ここチベットサイドから見る山容は、ほとんど雪が見えない。頂は黒い岩肌を覗かせている。ごつごつした岩場をアイゼンをつけて歩くのは嫌だが、きっとそのような状況になるだろう。
 ベースキャンプに着いたのは、ロンブク寺院を発ってまもなくのことだった。ベースキャンプではチベット時間からネパール時間に変わるので日本との時差は3時間強ということになる。今こちらは20時半だが、日本では23時45分ということになるはずだ。
 シェルパの手によってすでに赤いテントが人数分張られており、一人一つずつテントがあてがわれる。テント場の前にはキッチンや無線などが置いてある大型のテントが張られ、立派なベースができあがっていた。
 これからが本番、もっと書きまくりたいのだが、あいにくみんなはすでに眠りについている。ぼくは無線が置いてあるテントで一人パソコンに向かっているのだが、隣にはラッセルが寝ており、いつまでも電気をつけているのは申し訳ない。明日にはもっとガツンと書くので許してほしい。
 標高は5200メートルで、空気はかなり薄くなってきたが体調はいい。今日はとりあえずこのへんで。
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2001年04月10日(火)
■歯抜けのマルコ
 
 朝7時起床。シェルパがミルクティーをもってきてくれた。未だに名前を覚えられていない。8時から朝食。ここベースキャンプは標高5200メートルで、アコンカグアのC1と同じ高さである。アコンカグアでは一人ですべての荷物を背負い、水作りからテント設営、食事まで当然ながらあらゆることを自分一人でやっていた。おまけにあのときは虫歯を患っており、高度の影響とあいまって状態は最悪だった。水を作る雪も少なく、茶色がかった腐りかけの雪ばかりで、ようやくできあがったパスタも紅茶も砂混じりだった。
 しかし、ここチョモランマのベースキャンプでは生活に関する雑務はすべてシェルパが手伝ってくれる。ぼくらは登ることに専念できる一方、この辺のツアーっぽさがコマーシャルエクスペディションの引っかかる部分にもなる。そのあたりを隠すことなく伝えるのがぼくの役割というものだろう。一つだけ断っておくと、チョモランマは高尾山ではないということ。なめてかかると痛い目にあう。
 掲示板に水を3リットルも飲んでトイレが近くならないのか、という質問があった。この場を借りてお答えすると、高所では小便をすればするほどいい。体の循環をその高度に慣らすため、或いは酸素を頭に目一杯まわすため(?)、水は3リットルといわず飲めるだけ飲んだ方がいい。ぼくの知識ではきちんと説明できないが、鹿屋体育大学の山本先生の本などに詳しくでているので、興味のある方は一読を薦める。特に昨日のように1000メートルも一気に高度を上げた場合、一日中水を飲み続けトイレに行きまくるくらいのほうが高所順応するためには良いのだ。
 またウエブマスターの山上さんからも尋ねられているので、BCにおける通信環境についても書いておく。ぼくはこの日記を全てインマルサット(衛星電話)経由で送っている。このインマルサットはNHK国際放送局から、P2Pの時に引き続いて借りているものである。ぼくらの隊もインマルをもっているが、その場合1分10ドル、ABC(前進ベースキャンプ)では1分20ドルものお金を払わなくてはならない。写真などの大きなファイルを送る場合は一枚で50ドル以上かかることもある。その点ぼくは個人でインマルを持ってきているので気が楽だが、当然無駄使いはできない。写真などを毎日送ることができたら面白いだろうがインマル経由だと一枚で5分弱かかるし、今は試験がてら掲示板に目を通しているがこれも徐々に減らさざるをえないだろう。
 さらに電源の問題がある。ジェネレーターで電気を作るのは夜のみなので、昼間は手持ちのバッテリーを交換しながらようやく使っている。日が暮れると、みんなテントに戻り出すのでぼくも遅くまで起きているわけにはいかないのだ。電源に関してはかなりぎりぎりの状態でやりくりしている。
 朝起きると頭に微妙な違和感があったものの、起きて水を飲むと普段の状態に戻った。寝ている間は酸素を意識して吸っていないので、高度障害になりやすい。まだ5200メートルなのでたいした影響はないが、恐らくABCでは何らかの変化が表れるだろう。
 朝食にパンと目玉焼きを食べ、温かいミルクを飲んだ。昼間ラッセルとシェルパたちは食料の積み直しをしていた。ABCまでヤクを使って食料等を運ぶのだが、例年一頭につき25キロまで運べた積み荷が、今年から20キロに制限されることになり、すべてパッキングをやり直さなくてはいけなくなったのだ。67頭のヤクを使い、ABCまで荷揚げする。
 BCには続々と他の隊が入ってきた。野口さんたちはまだ入っていないようだが、イギリス隊やフランス隊らがぼくらの近くでトイレや大テントを設営し、BC作りに勤しんでいる。
 ハイメやエレンは順応のためトレッキングに出かけた。BCでの滞在期間は長いのだから、あんまりあせらくてもいいと個人的には思うのだが、ハイメなどはさすがに気合いの入り方が違う。エベレスト、チョオユー併せてすでに3回失敗しており、4度目は無いという背水の陣で今回参加している。故郷のグアテマラでは期待を一心に背負い、スポンサーからのプレッシャーもあるだろう。がんばってほしい。ちなみにデータ的なことをいうと去年のラッセルのチョモランマ遠征では一人の登頂者もだしていない。果たしてぼくらは・・?
 逆に最年少のマルコは気合いが抜けていていい感じだ。彼は酒は飲まないが、ティンリーではマリファナを吸っていた。誘われたがとりあえず断った。舌の真ん中にもピアスをしており、上部キャンプで凍らないか多少気になる。彼の姿を見ていてわかるように、エベレストにはちまきしめて気合いを入れて登る時代は終わったのだ。楽しめればいいのである。登頂や横断など旅の目的なんてあってないようなもので、その過程で得た経験が自分の財産となるのだ。
日本の若者も見かけだけではなく、彼くらいまで突き詰めればかっこいいのに、と思う。マルコとはよく話す。彼は大学をすでに卒業しており、帰ったらシャモニーのスキー場で働くという。英語があまり得意ではなく「どうもアメリカ人は苦手なんだ」という。はじめてモンブラン(ヨーロッパアルプスの最高峰、5000メートルくらいだったけ?)に登ったときは頭がクラクラして死にそうになったが、その後アルプスの山々に登り、チョオユーに向かう頃にはだいぶ高所にも強くなったという。彼女に電話したいというので、内緒でインマルを貸してあげた。「毎日は貸してあげないよ」とぼくがいうと、「毎日かけてたら(関係が)ダメになっちゃうよ」と言って前歯が一本抜けた歯を見せてにやっと笑った。マルコは素直ないいやつなのだ。
 アエラの記事が佐藤記者から送られてきた。野田さんや河村さんからのメッセージもあり、恐縮しつつ嬉しく思う。野田さんは四国に移ってまた毎日川を見て過ごしているのだろうか。吉野川の美しい流れを思い出した。他にも屋久島の星川淳さんや大阪で報告会を企画してくれた宮部りえさんなどに取材を受けていただいたようだが、誌面の都合で使われなかったらしい。どうもありがとうございました。(ぼくが言うことではないのかな?)
 メールといえば、P2Pの仲間にエベレストにいることを知らせたら、続々とメッセージが送られてきた。4月5日でぼくらがP2Pの旅をスタートしてちょうど一年がたった。それを思い出したのはハイジからの長いメール「a year」が届いたからだった。ハイジは休みを利用して妹の大学があるデンバーを訪ねたという。ぼくらがデンバーを訪ねたときに泊まったburning bear campground(確か日記で「すごい名前だ」などと書いた覚えがある)に向かい、彼女は様々な回想をしている。詳しくは省くが、色々な想いがこみ上げて声をだして泣いた、と。P2Pの旅は今もぼくらの心の中にしっかりと息づいて離れない。
 午後からほんの少しの間雪がちらついた。ぼくは日本の冬をTシャツで過ごしていたおかげか、だいぶ寒さに強くなっている。みんなは分厚いダウンジャケットにソレルブーツのような防寒靴を履いているが、ぼくはフリースにラサで買った150円くらいの便所スリッパをつっかけている。単なる寒さなら北極や南極の方がよっぽど寒いので自信があるものの、高所の寒さは単なる寒さとはわけが違う。上部キャンプではさすがに便所スリッパでは過ごせないだろう。
 まだ夕食前だが今日はここで日記を送ることにする。
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2001年04月11日(水)
■タルチョ、舞う
 
 BCには石組みの粗末なトイレがある。テントの近くですると臭くなるので、BCではなるべく立ち小便を控える決まりになっている。日が暮れて真っ暗になってから、ヘッドランプをつけてトイレに向かう。寝る前の習慣である。しかし、トイレの前ではヘッドランプの光に照らされて二つの赤い目がいくつか光り、毎晩ぼくのことを凝視してくるのだ。明け方のメキシコで出会った野良馬を思い出す。「目」というものは。体の他の部位と違って確実に意志をもっている。  
 ヤクだった。大きな角と長い毛足によって牛などよりもずっと大きく見える。近づくと体を起こす素振りをし、威嚇するように首の鈴を鳴らす。突っ込んでこないかいつも心配しながら、足早にトイレに駆け込んでいる。毎晩出くわす緊張の一瞬である。
 いつものように朝7時に起きた。毎晩遅くとも21時30分には寝袋に潜り込んでいるので、睡眠時間は十分だ。一昨日の晩は寝ている間に何度か起きたが、昨晩はぐっすり眠ることができた。シェルパのラムがミルクティーをもってきてくれた。
 8時から朝食。パン3枚とスクランブルエッグを食べる。食事に関してぼくは無頓着である。出発前、江本さんはじめ、ヒマラヤ遠征を経験したことのある何人かの方から「日本食は絶対もっていったほうがいいよ」と言われていた。ぼくもそのつもりで味噌汁などを用意していたのだが、日本での出発1分前まで荷造りしていたぼくはそれらの食料を全て自宅に忘れてきてしまった。カトマンズに着いて「しまった」と思ったが、実際こちらに来てみるとたいして気にならないことがわかった。P2Pで毎日パスタやシリアル、オートミールを食べていたことを考えれば、たかだか2ヶ月日本食を食べなくても何ら問題はないのだ。というわけで、ここBCでは食欲のないメンバーをしり目に、半ば残飯清掃係と化して食べまくっている。
 朝食後すぐにロンブク寺院から僧侶がやってきた。登山を開始する前に山へ祈りを捧げる「プジョ」という儀式を行うためだった。ぼくらのテントのすぐ横に石組みが置いてあって何かと思っていたが、この儀式を行うための祭壇だった。石の祭壇には皆のピッケル(マルコはスノーボード)が置かれ、供え物のお菓子などが並べられた。石組みの穴の中では線香が焚かれ、祭壇の前にシートが敷かれて二人の僧が座し、ぼくらも後ろに続いた。祭壇のバックにはチョモランマの堂々とした雄姿が鮮やかに浮かび上がっている。今日は雲一つない快晴だった。
 僧が祈りを唱えだし、シェルパたちも続々と集まってきて最前列に腰を下ろした。登山の安全と成功を祈願するこの儀式はシェルパやぼくらにとって重要なものだった。ぼくは神聖な峰に勝手に足を踏み入れる許しを乞い、自分がその懐にいられることについて感謝の意を伝えた。僧の祈りが空に散り、ぼくらの言葉もまた風に乗って流れていった。
 僧の祈りが途切れたところで、シェルパの一人が祭壇から天空に向かって一本の木棒を掲げた。先端から延びる3本のひもには旗が隙間無く結ばれており、シェルパの手によって3方に広げられた。タルチョだった。タルチョは経文が印刷された旗で赤緑黄青白の順でひもに結びつけられている。祭壇から3方に延びた
鮮やかなタルチョは風になびき、ぼくらの頭上を舞っている。宙に舞うタルチョに視線ばかりでなく心も奪われた。タルチョは大地と空を結びつける扉のように見えた。僧の祈りが再び空に響く。タルチョを埋め尽くした経文は風を受けて無限の言葉を空に発し、後ろに構えるチョモランマは無言でそれらに耳を貸しているように思えた。ぼくの心と身体はヒマラヤの大気の中に溶け込んでいた。
 儀式は2時間ほどで終わった。ラッセルは僧と共にチョモランマで亡くなった仲間の墓石に向かい、祈りを捧げた。ぼくらは山への挨拶を終え、ようやく玄関に足を踏み入れたのだ。
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2001年04月12日(木)
■選ばれしシェルパ族
 
 朝起きると、昨日洗ってテント内に干していた靴下がばりばりに凍っていた。テントの内側も蒸気が凍って霜がおりたようになっており、吐く息が白かった。
 今日から荷揚げのために少しのヤクとシェルパが上部キャンプに向けて出発する。BCから中間キャンプ、ABC(前進ベースキャンプ)、C1(ノースコル)と徐々に高度をあげてキャンプを張っていくわけだが、これだけの隊が入っていると、場所取りもおろそかにできない。ラッセルは中間キャンプに一人のヤク使いを送り場所をとらせ、ABCにはアン・リタ・シェルパの息子カサンがすでに入っている。
 朝食後、メンバー、シェルパを含めて全員で写真を撮った。これから皆が揃うことはあまりなくなる。シェルパは荷揚げなどでキャンプを行ったり着たりするし、ぼくらは中間キャンプがせまいことから第一陣と第二陣にわかれてABCへと向かう。昨日お祈りをした祭壇をバックに全員が集まった。その写真はもうすぐウエブにもアップされるだろう。
 昨日の儀式のあいだ、後ろの方で大胆にも寝そべり頬杖をついて退屈そうにしていた若いシェルパがいた。スザーン(アメリカからの参加者オーウェンの彼女)がそのシェルパの姿を見てぼくに囁いた。「あの態度はまるっきりアメリカ人ね」。気になったので話しかけてみた。サングラスをとると、ただのガキンチョではないか。そのシェルパはパサンといい、最年少の16歳だった。頭の良さそうな顔をしている。ちょっとジャニーズ系でもある。ネパールのマカルー地方に住み、今回エクスペディションに参加するのははじめてだという。
 ラッセルにシェルパの選択基準を聞いてみると、興味深い答えが返ってきた。基本的にラッセルがシェルパを選ぶのでなく、ロプサンなどの熟練シェルパが自分の村や家族、兄弟などから芽のある若いシェルパをピックアップしてくるという。ラッセルの元にはシェルパから「雇って欲しい」という手紙やメールが腐るほど送られてくるがすべて断っているそうだ。
 ラッセルは言った「若い少年シェルパに期待はしてないんだ。今回彼らは頂上には立てないだろうが、その過程で年上のシェルパからロープやアイゼンの使い方を習い、エクスペディションがどういうものかを学ばせるのさ。そして次にチョオユー遠征に連れて行って8000mを経験させ、やっと一人前の仕事ができるシェルパとしてエベレストに連れて行くんだよ。」16歳のパサンは供え物のクッキーをつまみ食いして、年上のシェルパに殴られていた。彼には世界最高峰への気負いも悲壮感も何もない。ロプサンに見込まれ今回のエベレスト遠征に参加したパサンは、そう遠くない将来、一人前のシェルパとして世界中のクライマーをヒマラヤの峰に導くことになるだろう。山を生業とするネパールのシェルパ族、地球上には多様な人間が暮らしている。
 話は飛ぶが、ラッセル・ブライスをはじめとする高所登山のガイド、という仕事もかなり興味深い。登頂を信じて疑わないクライアントを頂上に立たせること。8000mを越えると人間のあらゆる機能は低下し、自らの生命のみならず何人もの生命を危険にさらすことになる。自分のことだけで精一杯であるぼくらには、彼が背負うリスクの大きさについて想像することすらできない。
 9?年にあったエベレストでの大量遭難に関してはジョン・クラカワーが「INTO THIN AIR」(邦題「空へ」)というルポを書き、世界的なベストセラーとなった。難波康子さんらが登頂後に亡くなったあの遭難についての話である。昨晩夕食後にその話題がでると、ラッセルはジョン・クラカワーへの痛烈な批判をはじめた。まだ彼とつきあって間もないが、あまり感情を表にださない彼がめずらしくエキサイトしている姿を見て少し驚いた。ラッセルはスコット・フィッシャーもロブ・ホールもよく知っている。それは現場を知っている者の生の叫びだった。生半可な情報では書きにくい話なので、詳述は避ける。ラッセルは世界最高峰をガイドする者としての誇りをもっていた。

 昼になるとラッセルの新しいクライアントがBCに入ってきた。アメリカ人4人組は2週間ほど滞在してノースコルまで向かうという。もう一人のスコットランド人は登頂を目指す新しいメンバーだった。去年チョモランマに挑戦し失敗、今回は2度目の参加となる。名前は忘れた。遠征メンバーはお互いすでに親密になっているので途中からの参加は少しつらいものがあるだろう。
 猛烈な太陽の光を浴びて、テントの中は暑い。Tシャツ一枚で寝っ転がっていてもまだ暑苦しいくらいだ。それに比べて夜はとてつもなく冷える。朝になると水筒の水はかちかちに凍っている。こんなにも昼夜の寒暖差が大きい場所ははじめて経験する。体調管理に気をつけなくてはならない。ぼくらは少なくとも16日までBCに滞在し、順応を続ける。
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2001年04月13日(金)
■ヤク去って雪積もる
 
 テントのジッパーが壊れて、入り口の三分の一が閉まらない。換気が良くなったおかげで、今朝のテント内は霜が降りていなかった。昨晩はヘッドランプの明かりの下でジッパーと格闘していた。4,5年前から使っているテントらしいが、手入れが行き届いているので見た目に悪い部分はない。しかし、こうして時々ぼろがでる。結局ジッパーはなおらなかった。
 ぼくは寝袋を二つもってきている。一つはアラスカのマッキンリーや南極のビンソンに登る際に使っていたもので、だいぶ中のダウンも減ってきて保温力が落ちている。さすがにチョモランマでは新しい寝袋を使いたいと思い、モンベルから一番温かい寝袋を提供してもらった。ゴアドライロフトのダウンハガーXという製品である。昨晩はテントのジッパーが壊れたので試験がてらこの寝袋を試してみた。カタログにマイナス38度で寝ても大丈夫とあったのは嘘ではなく、とても暖かかった。今回の遠征に関する装備はモンベルに色々お世話になっている。(出発前にきちんと挨拶ができなかったのが心残りでした。久保さん、本当にありがとうございました)
 昨日、数頭のヤクが中間キャンプに向けて出発したが、今日は残りの50頭近いヤクと数人のヤク使い、ロプサンをはじめとするシェルパたちが中間キャンプを通過してABC(6400m)へと向かっていった。ヤクは背中の左右と上に食料などが入った3つのプラスチックドラム缶をくくりつけられ、ヤク使いの奇妙な口笛に従って、ゆっくりと前進していく。ロプサンと握手をし、彼らの姿が岩山の陰に隠れて見えなくなるまで見送った。ヤクにつけられた鈴の音が澄んだ空気にいつまでも響いていた。
 午後、BCに雪が舞った。瞬く間に大地を白く染め、無辺の荒野は真新しいシーツをかぶせたように様変わりしてしまった。チョモランマは雪雲の中に身を隠した。空と地面は同じ色と化して、境まで曖昧になっている。空気が冷たい。降る雪はあらゆる音を地に押し込んでいく。しばし静謐な空間に立ちつくした。
ラッセルはチョモランマの頂があるだろうポイントを見つめながら、「明日まで降り続けるだろう」といった。今晩はテントに雪が積もり、いつもより暖かい夜を過ごせるだろう。
 マルコは「積もるかな」と、これ以上ないくらい幸せそうな顔でいった。彼は黒い山に白が増えていくのを望んでいる。それだけ滑ることのできる場所が増えるからだ。今まで軽く書き流しているが、もし彼が頂上からスノーボードで滑れば世界初のクレイジーな快挙となる。スキーで滑った者はいるが、スノーボードはまだいない。しかもチベット側はネパール側と違い雪も少なく、ルート選定も難しい。死ぬ確率の方が確実に高い(ぼくは大袈裟なことはいわない)。もしスノーボードをサミットまで運ぶことができたら、彼の性格からしてそこで怖じ気づくことはあり得ないと思う。滑るだろう。究極のダウンヒルは果たして成功するか。
 ラサで買った便所スリッパが壊れかけてきた。雪面を歩くとむき出しの靴下が濡れて、寒い。そろそろ限界か。10分前にジェネレーターが止まった。パソコンももうすぐ止まる。書きたいことはいくらでもあるが、今日はこれで送る。おやすみなさい。
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2001年04月14日(土)
■それぞれのチョモランマ
 
 朝からABCに荷揚げする荷物のパッキングをした。昨日から降り続いた雪はBCを白く染め、明け方にやんだ。テントに積もった雪をたたいて落とし、雪の上に装備を広げた。BCに残していくものとABCに持っていく物をわけ、プラスチックドラム缶に詰め込んでいく。一つのドラム缶の重量は20キロまでと決められており、詰めた後に量りで重量をチェックしなければならない。パソコンや衛星電話、ビデオカメラ、デジカメ、スチールカメラ、各種バッテリー、フィルム50本などを入れるととても20キロではおさまらない。もう一つドラム缶を持ち出し、詰めては量る作業を繰り返した。
 パッキングの合間にスイスから参加しているエヴェリーンと色々話した。彼女が登頂に成功すると「スイス女性初」になるということは以前にも書いた。彼女はもともと山が好きでヨーロッパアルプスでクライミングにいそしんでいた。アイガー北壁登頂など、高さよりはテクニカルな登山を志向していた。しかし、スキーで滑降している最中にクレバスに落ち、腕や足などあわせて数カ所を骨折、ひどい怪我を負い、一時山から離れざるをえなくなる。リハビリ期間中にヘリコプターパイロットを目指し勉強をはじめ、念願のライセンスを獲得。ヘリコプターの魅力にとりこまれ、ここに来る前は空に通う。身体の方も全快し山岳ガイドの仕事を再開したところで、エベレストの話があった。スポンサーが見つからなければあきらめるつもりだったが、テレビ局などに話すと簡単にスポンサーが決まってしまい、この遠征に参加することを決意。同じく山岳ガイドでカメラマン、いくつかの8000m峰の経験もあるロバートと共にここに来ている。長身、ブロンドヘアー、大怪我から立ち直っているだけあって意志の強そうな顔をしている。今まで登った一番高い山はぼくと同じでアコンカグアだった。隊に参加している全てのメンバーがそれぞれの運命を背負ってチョモランマの頂を目指している。一ヶ月後、ぼくらはどんな状況にいるだろう。ここでは下手な小説よりよっぽど興味深いストーリーが紡がれつつある。
 午前中は皆パッキングに励んでいた。荷物が一番多いのは文句なしにマルコだった。マルコのテント内はスノーボードのギアで埋め尽くされており、寝場所の左右は装備による高い壁が築かれている。母のようにマルコを可愛がっているエレンは、「スノーボードのワークショップでもやるんでしょ」とからかっていた。当然ドラム缶一つでは足りず3つは確実に使う模様だ。皆に「下着をすべて燃やせ」と責められている。ヤクで荷揚げできるのもABCまでだ。それ以降は装備もシビアに取捨選択しなくてはならない。
 時間をみつけてラッセルとガイドのクリス、キッチンシェルパのラチューにある件でインタビュー。山には色々な話が転がっている。
 お昼前にようやくパッキングを終えた。テントの中がだいぶすっきりした。埃と砂まみれのマットを取り出し、はたいた。ぼくのテントについて少し書いておこう。テントはワインレッドの渋い容姿をしており3人が寝られるほどの大きさで、一人一人にあてがわれている。入って右側にスポンジマットを敷き、その上に寝袋が置いてある。寝袋は基本的に置きっぱなしである。真ん中にはモンベルの空気注入式マットを置き、その上に南極で活躍した座椅子(アメリカではクレイジークリークチェアというとすぐわかるのだが、日本ではマイナー。)を置いてパソコンをたたいたりしている。一番左側には着替えや装備などを並べ、すぐに取り出せるようにしてある。ぼくにとっては素晴らしく心地良い空間で、日本のとっちらかった部屋よりもよっぽど快適かもしれない。長い遠征では個人テントは必須だ。
 体調を崩すメンバーがでてきた。風邪気味、食欲不振などなど。あせってはいけない。ゆっくりと身体を高度に慣らしていこう。
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2001年04月15日(日)
■お隣さん
 
 寝ている間に少し頭痛がした。以前と同じように朝起きて水を口に押し流すとすぐに治った。チョモランマの頂には厚い雲がかかっている。逆U字型を描き山のシルエットにあわせて雲がこびりついているように見える。C2にいるアメリカ隊はさぞ苦労を強いられていることだろう。ラッセルの下にシェルパから無線で入った情報によれば、中間キャンプ、ABC共にもの凄い風が吹き荒れ、とてもテントを張れる状態ではないという。時速20マイル(32キロ)の風ということなので、無人のテントは確実に飛ばされる。この悪天は上から下へあっという間に降りてくる。ぼくらはABCに向けて明日ここを発つ予定だったが、このままではどうなるかわからない。
 野口健君たちが昨日BCに到着した。野口君の隊のシェルパは4日ほど前にぼくらのベースのすぐ裏にテントを張っていたが、当の野口君の姿はまだ見えていなかった。野口君がいない間、すでに一人のシェルパが体調を崩し、下痢と嘔吐を同時に引き起こしていた。日に日に状態が悪化したため、野口隊のシェルパはガモウバッグ(人の手によって一時的に酸素を平地の状態にもどす寝袋大の入れ物)を使った。ガモウバッグは常にポンピングする必要があるのだが、使用方法をよく理解していなかったシェルパたちはポンピングを止めるなど誤用し、患者の様態を悪化させてしまう。近くにいたイギリス隊のシェルパが助けに入ったものの回復せず、ラッセルの医療テントにシェルパが相談にきた。ガイドのクリスらが手伝って再びガモウバッグに患者を入れ、患者は一時的に安静を取り戻した。彼らはファーストエイドキットも持っていなかった。ロプサンによると、30数人いるシェルパのうち、ヒマラヤ登山を経験しているのは10人足らずだという。野口君不在のあいだにこのような出来事があった。
 とにかく昨日、隊のメンツが揃ったようなので、今朝、彼らのベースに遊びにいった。ぼくらのベースのすぐ裏に彼らのテントはある。ちょうど彼らなりの「プジョ」(登山開始の儀式。詳しくは日記「タルチョ、舞う」参照)を行うところだった。野口君は去年回収した酸素ボンベを溶かしてアーティストが作ったというウサギの像をここに持ってきており、石段の前にそれを置くところだった。カメラマンの方がそれを撮影していた。
 昼食後、食堂テントを訪ねると、昼寝から目覚めた野口君と、カメラマンの村口さん、中国語通訳の女性、亜細亜大学2年で山岳部の女の子がやってきて話すことができた。日本人はこの4人だという。野口君の隊には他に22歳のチベット人、エベレストにすでに南側から登頂し今回北側からの両側登頂を目指すネパール人女性、グルジア人、韓国人と5カ国合同の隊となっている。清掃登山の様子は衛星を使ってフジテレビなどに中継で送られるらしい。野口君とカメラマンの方は順応のためぼくらと同じくらいにABCを目指し、タッチしてすぐにBCに戻るという。ラッセルはABCに長く滞在するタクティクスをたてているが、野口君はそれには批判的な見方をしている。吉とでるか凶とでるか、結果は山の神のみぞ知る。山岳部の女の子はなかなか面白かった。ここらへんの描写はまた次に機会に。
 5カ国合同とはいえメイン言語はやはり日本語。ネパール人やチベット人は日本語会話の中で口をつぐんでいた。日本人隊も面白そうだが、ぼくには国際隊のほうがあっている気がした。本当にたくさんの発見があるし、自分についてもよく考えられる。それになんとなく居心地もいいのだ。でも、邦楽や日本語の本は読みたくなるけれど。
 太陽が姿を消し、だいぶ気温が下がってきた。2日前に降った雪は昨日の晴天ですっかり溶けたが、また天気が悪くなる兆しがある。行動開始はまだ先だろうか。
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2001年04月16日(月)
■明日いよいよ。
 
 今朝10時過ぎ、第一陣がBCを発って、ABCに向かった。カトマンズで行ったメンバー紹介から少し時間が経ったので、自分に復習する意味もこめて、もう一度メンバー紹介していこう。第一陣でABCに向けて発ったのは6人。一陣か二陣かは個人の希望で決まった。
 オーウェン(生粋のニューヨーカー、登山経験は浅い。軍隊に6年いた経験があり、体力はありそう。ハードボイルド小説を一冊書いている。)
 スザーン(オーウェンの彼女。本業は小学一年生を受け持つ教師。今回はABCまで行き、あと3,4日で帰ってしまう。)
 ハイメ(グアテマラ出身、セブンサミットの最後がエベレストで、成功すればグアテマラ人として初。エベレストは2度失敗し今回3度目。本国では有名人。石川とは南極で会っている。)
 ロイ(もうすぐ63歳という高齢。去年秋チョオユー登頂。元ホテル経営者で気がいいおじいちゃん風。マルコにからかわれること多し。)
 エレン(アメリカ出身、名だたるアドベンチャーレースに出場、完走の経験あり。マッキンリー、チョオユーなどに登頂している。)
 アンディー(ガイド、42歳。ヒマラヤ遠征は20回を越える。ヌプツェ、アメリカ人初登、いくつかのヒマラヤ6000m峰初登など。ネパール側からエベレスト無酸素登頂、チベット側からも2回登頂(酸素あり)の経験をもつ。ラッセルからはアンディーシェルパなどと呼ばれ、高所にやたら強い。)
 明日ぼくを含めた7人、第二陣が出発する。メンバーは以下の通り。
 マルコ(フランス、最年少の22歳。詳しくは「歯抜けのマルコ」の日記を参照。エベレスト頂上からスノーボード滑走を狙う。フランスのアウトドア雑誌で彼のことが大きく紹介されていた。スポンサーはミレー)
 エヴェリーン(スイス、成功すればスイス女性初のエベレスト登頂者となる。詳しくは「それぞれのチョモランマ」参照。本業は山岳ガイド)
 ロバート(スイス、本業は山岳ガイド兼カメラマンでブロードピークなどいくつかの8000m峰登頂の経験をもつ強者。今回はエヴェリーンを頂上に立たせる目的で参加。)
 ジェス(ハリソン・フォードにそっくり、ダンディーなおじさま。モンブランや冬の富士山頂上からスキーで滑っている。チョオユー登頂。本業は山岳カメラマン。この人もたぶん強い。)
 カレン(男性、スコットランド出身。BCからぼくらの隊に加わったため、あまり話していない。去年エベレストに挑戦し悪天に阻まれ失敗。7400mくらいまでしか登れなかった。BCに着く前はネパールのクンブー地方で順応に励んでいたらしい)
 ナオキ(日本出身、マルコに次ぐ23歳。北極、南極で寒さと風呂なし生活には慣れているが高所は?。大丈夫ですか?)
 アズモフ(ガイド、デンマーク出身の26歳。ストレートのブロンド長髪でアイドルとしても通用する外見をもつ。性格もいい。ネパール側からエベレスト登頂、ラッセルと組むのは今回がはじめて。)
 ラッセル(いわずとしれたエベレスト北側を代表する老舗ガイド。チョオユー無酸素単独登頂に世界ではじめて成功など。責任感の強い男。ニュージーランド出身)

 というわけで、ぼくは明朝ABCへ向けて出発する。中間キャンプで一泊し18日のお昼頃にABCに到着予定だ。標高6400mとここBCより1000m以上高いので、余裕の日記送信などできないかもしれない。もしくは思考能力低下により、日本語となりえない文章を送る可能性もある。パソコンの液晶が凍る場合だってある。なので、日記が更新されなくても気にしないでくださいね。(明朝11時より、J-WAVEのラジオにベースキャンプより生出演。お暇な方はどうぞ)。ではまた。
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2001年04月17日(火)
■ジェスとスザーンの離脱
 
 約4時間で中間キャンプ着。ずっとアコンカグアのような岩場が続いていた。5800mくらいだったか。矢印形の大テントがたっており、そこで川の字になって寝た。ラッセル、アズモフ、エヴェリーン、ロバート、マルコ、ぼくの6人。
 ジェスがABCに着く前に帰ってしまった。チョオユーに登っているし、どうしてと聞くと「いつもは単独や少人数で登ってた。大人数の遠征はおれにあってない。」という。
 このようにして頂上に着く前にメンバーがだんだん減っていくのだろうか。ちなみにジェスはチーム唯一のベジタリアンで、ラッセル曰く「今回は奥さんが一緒じゃなかったが、ジェスはいつも奥さんと一緒に登っていた。シャモニーでは彼と長時間ヒマラヤ遠征について話したんだがなあ」と言っている。
 また前日にでたオーウェンの彼女スザーンもABCまでたどり着けなかった。中間キャンプで泊まった際、「ものすごく気持ち悪かった」と。普通の女性に5800mは確かにきついだろう。
 ちょっとだけ頭に違和感をもちながら夜7時30分頃就寝。
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2001年04月18日(水)
■ABC到着!
 
 中間キャンプから4,5時間の歩きでABCに到着した。途中から天気が悪くなり、雪が降り出すと、岩場にあったかすかなトレースを少しずつ消していった。粉雪はすぐにつもりだし、高度の影響でぼくのペースも遅れ気味で後続のヤクたちに抜かれていった。周りには三角形の氷山が立ち並び 、太陽の光を浴びると、北極の乱氷のように美しいブルーに変わった。しかし、そんなことを感じられるのも束の間で、どんどん余裕が無くなっていく。
 ABCのすぐ手前、雪が降る中、シェルパのカサン(数日前からABCに入り陣取りし、テントを張っていた。何度も書いているが、アンリタ・シェルパの息子)が迎えに来てくれていた。テルモスに入った温かいお茶をくれる。カサンと一緒に最後の登りを越えると、そこがABCだった。幅は広くないが、奥行きがあり、ぼくらのテントはその一番奥の方にあった。16歳のパサンが昼飯を持ってきてくれたが食べる気になれなかった。ヤクが運んでくれた荷物をテント内にぶち込み、横になる。ぼくは標高6400mの前進ベースキャンプにいる。
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2001年04月19日(木)
■くらくら
 
 昨晩寝ている間、最高に頭が痛く、何度も目が覚めた。ここはBCと全く違っている。
 今日はテント内の整理を行った。BCと同じように3人用の広さで、昼間は日の光を浴びて、テント内の温度は急激に上昇する。しかし、いったん日が陰ると猛烈に寒くなり、頭のてっぺんからつま先まで完全防寒しないと寒くてたまらない。午後、ABCに着いてはじめてメールをチェックする。返信する気力なし。ジェネレーターがまだうまく動いておらず、リブレットではなく電池で動くモバギでやりとりしてるせいもある。これも20日に書いている。さっさと順応してくれることを願うのみ。ABC程度でダイアモックス(高山病に効くお薬)などの世話になるわけにはいかない。
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2001年04月20日(金)
■こいつら絶対かっこいい
 
 シェルパについて書く。キッチンにたむろしているシェルパたちの中に入り、ようやくシェルパの名前をほとんど覚えたからだ。今日はシェルパたちのデイオフの日だった。
 
 ロプサン
 (30前半か20後半、ラッセル隊のシェルパ頭(サーダー)、寡黙だが、目があったときの微笑が妙に人を安心させる。よくお辞儀をし、礼儀正しい。山で死にそうにない。)
 
 プルバ
 (発音的には「る」を小さい「る」にしてプバという音に近い。31歳。ロプサンに次いで頼りになる男。2人の子持ちで、精悍な顔をしている。エベレストは4回目、チベット側から一度登頂。喧嘩になると真っ先に胸ぐらをつかみそう。)
 
 カサン
 (エベレスト10回登頂のアンリタの息子。歳はロプサンやプルバと同じくらい。ロプサンより寡黙に感じる。ティンリーではじめて会ったときには浪人生風と書いたが、山ではやはり別人。ロプサン、プルバ、カサンの3人がいれば火星の山にも登頂できるだろう。)
 
 ロプサン兄
 (多分シュルドゥムという名前だったと思うが、発音がうまく思い出せない。さすがに年長だけあって人生の辛さを色々知っているような顔をしており、背の高さもシェルパにしてはかなり高い。ぬぼっとしていて寡黙。)
 
 パサン
 (最年少16歳のシェルパ。遠征は今回が初。食器を整理したり、ぶらぶらしているがまんざらでもなさそう。若いので背は低いが、りりしい顔立ちをしている。16歳で現役のシェルパと一緒に生活しているのは彼だけだから、今後活躍していくことだろう。今回はノースコルくらいまでとラッセルは言っている。)
 
 ラチュー
 (キッチンシェルパのボス。台所を任されているシェルパといえど、格が低いとかそういうわけではない。チベット語ができるためヤク使いとの交渉や、もめ事が起こるとでてくるのがラチュー。貫禄十分で、各隊のシェルパやそれにまつわるゴシップを全て知っている。去年のエベレスト遠征では2ヶ月弱もABCに滞在し、ラッセルからの信頼も厚い。表の頭がロプサンなら、ぼくは陰のボスをラチューだと思っている。)
 
 ラム
 (キッチンで働く気のいいシェルパ。日本に一度来たことがあり、新幹線にのったことがあるという。彼は英語が達者ではないので詳しくは聞けなかったが、何かの大会に招かれたのかしたらしい。日本びいき。「おはよごじゃいます」と言って毎朝7時ぴったりにミルクティーをもってきてくれる)
 あと2人、名前を覚えられなかったキッチンシェルパがいる。二人ともいいやつ。一人はゴリラみたいな顔をしているが、いつも顔をあわすとにっこりし、一人もいい笑顔をもつ。
 ヒマラヤ登山者くらいしか、シェルパと顔を合わし、話すことはないと思うが、実はとても興味深い人々だ。「あるシェルパの一年」みたいな形で取材できたらなんと面白いだろう。特に登山していないときのシェルパ族に興味がある。
 
 さらにマルコやシェルパに関わる話を少し書いて今日の日記を終えることしよう。
 去年(いや一昨年?)、20歳そこそこのマルコは世界ではじめて8000mを越えるチョオユーの頂上からスノーボードで滑走した。もう一度触れるが「世界初」である。しかし、同じ時期にスティービーというスイス人が同じくチョオユーの頂上からスノーボード滑走を狙っていた。このスティービー、アルプスの3大北壁を一日のうちにやったとかなんとかのスイスでは有名な登山家だった。40歳前半とマルコとは歳が倍ながら、お互い競い合っていた。
 マルコはチョオユー頂上からのボード滑走をスティービーより早くやってのける。(このとき頂上までボードを運び上げたのがプルバだった)。下山後、麓ではパーティーが夜通しひらかれていた。シーズンは同じだからラッセル隊やスティービーの隊も一緒になって、それぞれの無事の下山が祝われていた。スティービーは何かと性格に問題のある男(ラッセル談)だったが、世界初のボード滑走をマルコに先にやられても、酒などを飲んで特に何かが起こりそうな雰囲気はなかった。しかし、明け方近く、たまたまマルコが会場に入り、自分のカセットテープをラジカセからとりだすと、いきなり近くにいたスティービーがマルコをぶん殴った。理不尽きわまりない話だ。形勢不利と判断したマルコは自分のシェルパたちを呼びにいく。40過ぎとはいえ山男は強い。マルコの判断は正解だったろう。マルコはロプサン、プルバを引き連れ、スティービーのもとに向かう。ロプサンも酔っぱらっており、強い態度でスティービーに言った。「おまえ、今度マルコに何かしたらただじゃすまさないぞ。文句があるなら今殴る」。若くて力強いロプサンやプルバに凄まれたら、いくら強靱な山男スティービーでも引くしかあるまい。いつも登山家の下で命を賭して使われているシェルパたちだが、この話を聞いてぼくは胸のすく思いだった。これには後日談がある。次の日、その場に居合わせなかったラチューが偶然スティービーに出会った。横に流れている凍った川を指さしてラチューは言った「昨日のようなことをしたら、二度と帰ってこれなくなるぜ」。
 愛すべきシェルパ達(マルコもね)。山はストーリーに溢れている。
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2001年04月21日(土)
■だから面白い
 
 昨晩バファリンを飲んだら、頭痛がぴたりとやみ、小便がしたくなって一回起きただけで済んだ。しかし、起き抜けにはまた頭痛が復活する。
 食欲はBC通りとまではいわないが、何とか食べている。体調万全とはまるでいえない。
 ABCは風が強い。テントやプラスチックのドラム缶は時折吹き飛ばされそうになる。朝食後、ガイドのアンディーとアズモフ、メンバーのオーウェン、エレン、ハイメがノースコル(C1・7200m)に向かった。ノースコルにタッチしてすぐ帰ってくるのだ。ぼくはノースコルに向かう途中、アイゼンを使わなければならないポイントまで運動靴で登った。少しでも高いところまで行って、戻ってこなければまた頭痛がでてくるからだ。時折ものすごい風が吹き、ノースコルへ行くには目出帽が必要だと感じた。
 韓国隊やノースコルに向かうシェルパたちとすれ違った。韓国隊は道の脇でゲロゲロやっている。普通なら順化のためにBCとABCの間を3?4回往復する隊もあるぐらいなのだが、ラッセルのタクティクスでは一度ABCに入ると、頂上アタック前の休養以外ではBCには戻らない。あとは個人の判断である。彼によると22キロの道のりを往復するだけで消耗してしまい逆効果だという。このあたりがラッセルのタクティクスが「頂上に行く前にメンバーをふるいにかける」と言われる由縁でもある。
 今、夕方の5時、そろそろ寒さが身にしみてきた。キーボードをたたく指がかじかんで仕方ない。ABCでは暖をとるためだけに食事のカロリーがすっ飛んでいくので、何もせずともエネルギーが消耗していく。北極、南極は単に凍るほど寒いだけだが、高所の寒さはもっといやらしい。芯から冷える。人間は適応する生き物だが、一人の人間が全ての環境に適応するのは難しい。ヒマラヤにはシェルパ族、北極にはイヌイット、ミクロネシアにはふんどし一枚で生活する海の民がいる。だから人間に興味がある。だから地球は面白いと思う。
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2001年04月22日(日)
■調子向上
 
 強風のため、ノースコル行きは中止となる。ラッセルは中国登山協会の要請とかで、ラサに一度戻り4日後くらいに再びABCまで戻ってくることになった。今日の間にABCからティンリーまで一気に戻るという。かなりのハードスケジュールである。
 午後にアイゼンポイントまで往復。食欲、調子ともに向上。頭痛減る。
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2001年04月23日(月)
■復活のノースコル
 
 今日はぼくの人生の中で一番高い場所へと向かう。
 朝10時近くになって、ノースコル(7200m)へ向け一人でABCを発った。ルートがわかりやすいからいいのだが、みんなは8時過ぎには出発しており、一応反省。行きに4時間、帰りに2時間という話だったので高をくくっていたのだ。持ち物は2枚のテントマット(団体装備、ノースコルのテントに置いてくる)、と水1リットル、カメラ、アイゼン、ストック、ハーネス、ユマール等。(何だかわからない方はその発音からどんなものか想像してください・・)
 ABCからアイゼンポイントと言われるアイゼンをつけなければつるつるして登れなくなる場所まではガレ場。約1時間ほどだが、たらたら行って1時間半から2時間。周りに人がいないとたるんで困る。今日は天気がいいのでノースコルに向かう他の隊の人もたくさんいるが、どうやらぼくが最後のようだ。左手に氷河、左上手にチョモランマの霜降り肉のような白黒の山容があり、右手には幾重にも重なった岩の層が覆い被さるようにそびえている。正面はノースコルに上がるために立ちはだかる白い壁。イトミミズのようにみえる人間が軽く行列しながら這い蹲るようにして登っている。ここからだと垂直に見えるその壁にはフィックスロープが何ピッチも張られ、ユマール(アセンダー)を使ってゆっくりよじ登っていくのだ。
 ノースコルに上がれば、あとは左手に稜線上を上がっていけばいいはずだ。ノースコルをC1とし、C2(ここはC1からすぐで1,2時間という)、C3、そして最後にC4(ラッセルの隊以外、普通は張らない)を抜けて、サミットを目指す。ノースコルまで行けば頂上がほんの少し近くなった気がする。
 アイゼンポイントでハーネスなどを身体に着け、アイゼンをプラスチックブーツに結びつけた。ノースコルくらいまでならワンスポーツブーツなどではなくコフラック、しかもオーバーブーツやロングスパッツも無しで十分だ。(今日はマニアックな用語が多く申し訳ない。軽く読み流してください。)
 つるつるした雪上をゆっくり壁のとりつきまで歩いていく。と、前から62歳のロイがぼくの方に向かって歩いてきた。「どうしたの?」「今日はここでやめとくよ」後ろからガイドのアンディーが付き添っていた。ロイは壁に入って、2,3ピッチ、フィックスロープをユマールで上がり、そこから引き返してきたという。ここまででも結構つらいのだから、60を過ぎた身にあの壁と高度はなかなか厳しいだろう。アンディーはアイゼンポイントまでロイを送ると再び引き返してぼくに追いついてきた。ここからアンディーとぼくは一緒に登ることになる。
 壁のとりつきまでくると、一人しゃがみこんでいる人がいた。ラッセルのクライアントだがノースコルまで行って引き返そうとしていた男性だった。この人もノースコルまで辿り着けず、ここでギブアップ。ぼくはABCを発ったのが遅れたことを少し後悔しつつ、壁の登りに入った。下の方のフィックスロープは少し毛羽立っていたが、とにかくこれに頼るしかない。
 ユマール(アセンダーともいう)という登攀器具がある。ロープに取り付け、上に滑らせることはできるが、下には動かない。垂直に延びたフィックスロープにユマールを付け、一緒に登っていく。ユマールは腰につけたベルト(ハーネス)と結びつけられており、万が一足が滑っても、ユマールが効いているので落下することがないし、足場が弱ければユマールにぶら下がるようにして登ることもできる。この説明でユマールがどんなものかわかっただろうか。登っている様子をたまに克明に描こうと思うと難しい。
 とにかくユマールを使いながら急な斜面をよじ登っていく。1,2回足を上げては息切れする。はじめてこのような登り方をしたマッキンリーでは戸惑ったが、今回は簡単に前の人に追いついてしまう。ゴーグルをしていても眩しすぎる太陽の光を避けて天上方面を見ると、渋滞とまではいかないが、人が列になっているのが見える。2,3人抜かしたが、体力の消耗が激しいので抜かすのをやめた。ユマールを外し、落下防止のカラビナを外し、人を抜かし、またロープにつけ、という作業は案外体力を消耗するのだ。
 時折息継ぎに後ろを振り返るとはるか下方にABCのしみったれた粒々がみえる。こんなに高いところまできたか、と単純に思う。アイゼンポイントから壁のとりつきまでの雪面は波打ったようになっており、太陽の光を浴びてギラギラしている。なんだか楽しいぞ。おれは今チョモランマに登ってるんだ。フィックスロープにぶら下がってるけど、もうすぐノースコルで、頂だってすぐそこにある。ここは標高7000m近いヒマラヤの山中なんだ・・・。
 息が上がる。休む回数が多くなる。ノースコル直下に核心部分があった。垂直もしくは、オーバーハングとまではいかないが、きちんと足場をみないと雪が覆い被さるようになっている部分もある。こんなのユマールにぶら下がらないでどうやって登ればいいのだ。ぼくは何度かロープの位置と身体を入れ替えて、力任せに登った。息が一気に乱れ、そこを登り終えるとしばし動けなかった。そこからは斜面のトラバースで、先にテントが見えた。ノースコルだった。
 ノースコルは風も穏やかで、周りを一望できた。高い。はじめて7000mオーバーの場所に立った。いつもの山の頂上のように空は宇宙に続くように青く、雲などは遙か下、もしくは無かった。ぼくは背負ってきたテントマットを3つ並んでいるぼくらの赤いテントの真ん中テントに投げ入れ、すぐに極厚のダウンジャケットを羽織った。
 ノースコルはBCやABCのようにさすがにテント村のような感じではなかったが、それでも10何張りかのテントがすでにあった。ぼくらの見慣れた赤いテントは中腹に位置し風に揺られている。マルコはノースコルに着く前に我慢できず、雄叫びをあげながらスノーボードで滑りはじめた。登っているあいだ、それを下からほんの数秒眺めていたぼくは、危なっかしくてただ凝視するしかなかった。クレバスが何個もある。あいつは下見をしたつもりなのだろうが、間違ったら落ちちゃうよ。マルコの場合、ともあれ下りが楽でいい。
 ぼくとアンディーもすぐに下りに入った。急な斜面を慎重にいく。登りではきつかった部分も下りはすぐだ。ABCへと抜ける大パノラマを前に雪面に足跡を残していった。ABCに着く頃にはふらふらになっていた。しかし、頭痛など調子悪いところはない。すぐに夕食だったが、さすがにがつがつ食べることはできず、上品に食べた。
 順応順調。ノースコルまで登ったことでだいぶ楽になった。20時前に就寝。
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2001年04月24日(火)
■チョモランマの懐に抱かれて
 
 今日は休養日。昨日の疲れがまだほんの少し残っている。気が付いたことを少しずつ。
 
「水事情。」BCのそばには川が流れており、シェルパたちが頭からポリタンクを引っかけ運んでいる。ABCにも谷底に川が流れている。BCとABCのあいだ、中間キャンプには池があるのだが、この水は汚染されており、沸騰させないと必ず腹を壊すという。ヤクの糞尿による汚染で、荷運びのヤクたちも必ずここで一泊するため、どのように解決するか老舗ガイド会社などのあいだで取りざたされている。ABCの水もBCに比べるとそんなにきれいではないとのこと。
 
「パサン、キッチンシェルパに。」16歳のシェルパ・パサンの調子が悪く、本当ならノースコルくらいまでは行く予定だったが、ロプサンの判断で、ABCにてお茶をだしたり皿を片づけたりするキッチンシェルパに徹することになった。この遠征唯一のチベット人シェルパでキッチンにいたカサン(アンリタの息子もカサンだが、これとは別人。ぼくが最後まで名前を覚えられなかった二人のキッチンシェルパの一人)が上部キャンプまであがって手伝うことになった。彼はチベット人だから「シェルパ族」ではないかもしれないが、ここでは面倒なのでシェルパと呼び、もう一人のカサンと区別するためチベットカサンと呼ぶことにする。
 
「8300mまですでにルート工作済み。」ラッセル隊の主力シェルパ、プルバとカサンが強風の中、日も明け切らない夜明け前にABCを出発し、C3(7900m)にテントを張りに向かった。これは見事に成功し、昨日彼ら二人はABCに戻ってきた。その先のルート工作(主にフィックスロープを張る)について、例年ならラッセル隊のシェルパなどが繰り出されることも多いのだが、アメリカ隊のシェルパが頑張り、すでにルート工作済みだったという。さらに去年のラッセル隊は一人も登頂者をだしておらず、そのおかげで上部には去年シェルパが運び上げておいた酸素ボンベや予備テント、マットなどが使われずに去年のまま残されているという。シェルパの仕事は昨年に比べると今年はだいぶ楽になっているとのこと。(もちろんそんなこといったって、厳しいお仕事です)
 などと色々書いてきたが、登山などをしない方にとっては何を言ってるかよくわからないような気がする。と、思いつつ日々の日記だからこれはこれでいいのだ、とも思う。気にせず色々書いておこう。(ぶつぶつ・・)。
 
 昼間テントの中は太陽の光を浴びて、オレンジ色の小さな個人ドームと化す。寝っ転がってぼーっと天上を見上げているのだが、光が強すぎて目が点滅してくる。テントの中はひどく乱雑になっていたが、今日はテントマットを引っこ抜き、郊外の住宅街で退屈な昼下がりを過ごす専業主婦のように鼻歌を歌いながらはたいた。これで少しはほこりっぽさもとれただろう。1週間ぶりに下着も替える。カトマンズで安いパンツを30枚買い込み、エベレストで毎日履き替え(履き捨て)て、登頂した男の話を思い出した。心身ともにリフレッシュすることは長い遠征では大事である。
 そろそろ暗くなってきた。チョモランマの長く寒い夜がはじまろうとしている。今日もボウルを両手でかかげ、ぶるぶる震えながらスープをすするだろう。鉄のボウルはスープで温められ手が心地いい。無理して砂糖なしの紅茶を何杯も飲み、寝る前にトイレに行って、ヘッドランプの明かりで寝袋の位置を整える。枕があれば気持ちいいだろうなあと思いつつ、ダウンジャケットや運動靴や水筒やフリースなどを頭の下に並べていく。枕は高い方が寝心地がいいことを発見し、以上の物を痛くないよう念入りに敷いてさっさと寝袋にくるまるのだ。ゴアテックスでカバーしてある寝袋の、口に近い部分だけは朝になると霜が降りて、少し寝返るたびに霜が顔にふりかかって冷たいのだ。かといって扉のジッパーをあけて眠る勇気はない。ダウンジャケットのふかふか枕に一時の幸せを感じ、ぼくは目をつぶる。チョモランマの懐のさらに赤いテントの中にようやく一晩の静寂がおとずれるのだ。
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2001年04月25日(水)
■薄い空気の中で何を読むか
 
 頭痛やその他、高所に伴う疾病は消えた。6400mに身体が順化したのだ。(と信じたい。)
 先日、講談社から今度出る本の初校がABCに届いた。カトマンズにあるラッセルのオフィス・留守を預かるシェルパ宛、とある。4月上旬にとうに出ていた初校だが、日本からネパールを経てBCを往復するシェルパとヤク、或いはトレッカーによって6400mのチョモランマのキャンプまで届いたのだ。現代の流通機構は計り知れないものがある。
 その中に家から送ってもらった数冊の本が入っていた。告白するとぼくは読書のための本を全て家のこたつの上に忘れてきた。(衝撃・・・)。日本食を忘れ、ヘッドランプを忘れ、さらに一番大事な本を忘れてきた。体調を崩したら本が読めなかったことを理由にしようと思っていたくらいだ。2日に1冊読む計算で20冊弱を用意していたのに。
 そんなわけで今まで本無し生活を続けてきたが、ようやくここで念願の小包が届いた。いくらなんでも20冊は無理なので、積み上げられた本の中から、うちの母親に適当に4冊を選んでもらって、初校と一緒に梱包してもらったのだ。
 選ばれた4冊とは・・。
 
リチャード・バック「イリュージョン」
サン・テグジュペリ「人間の土地」
井上靖「あすなろ物語」(大阪報告会でもらったもの)
池澤夏樹「南の島のティオ」(上に同じく)
 
くじ引きで引かれた割にはなかなかいい組み合わせだと思う。
 さてこれに加えて、本来もってくるはずだった本を思いつくままに列挙していこう。読んでもないのに、ぼくがおすすめする本ばかりである。本に関する直感であまり外れたことはない。
 開高健もの、ポール・ニザン「アデン・アラビア」(読みかけなのに)、ヴィム・ヴェンダースもの、中上健次もの、カミュ全集の3巻目、ロバート・ハインライン「宇宙の戦士」(「夏への扉」もいいけど読んじゃった)、沢木耕太郎「天涯」(一度読んでるけど沢木さん本人からもらったので)、ブルース・チャトウィン「ソングライン」他(文庫だったら真っ先に送ってもらったのに)、藤原新也「西蔵放浪」、養老さんのエッセー(もらいもの)、モーム「月と六ペンス」、谷川俊太郎詩集(もらいもの)、金子光晴詩集・・・
 あと1,2冊あった気がしたがどうしても思い出せない。なかにはハードカバーも混じっているが、少なくともBCまでは絶対持っていくつもりだった。大阪報告会や他の機会にもらったものが他にもあったが、今回はパスさせてもらった(また次の機会に)
 
 どれも日本に帰ったらゆっくり読みたい本ばかりだ。日本に帰ったら何がしたいですか、とよく聞かれる。もちろんお寿司なども食べたいが、ゆっくり本を読んで、でかい本屋で立ち読みして、映画を観て、いい音楽聞いて、写真展ひやかして、ギャラリー覗いて、人を観察して、公園ぶらついて、コーヒーすすって、最後にオールナイトの映画を居眠りしながら観て、始発の前にちんたらした足取りで閑散とした町を一人で歩いて家に帰りたい。
 下山後はそれをすぐに実行しよう。
明日はノースコルに一泊、C2を目指す。
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2001年04月26日(木)
■音楽から何かが見える!?
 
 今日ノースコル泊C2を目指すはずだったが、風が強く明日に延期となった。
 昨日の髪を洗った。シェルパのラムにアルミのボウル一杯のお湯をもらい、コップを使ってゆっくり大事にお湯を頭にかけていく。髪が湿ったら、シャンプーを使って一気に洗う。一度ごしごしこすったくらいでは汚れがとれないので、ここぞとばかりにシャンプーは多めに使う。毎日洗っていればごく少量でも泡だってくれるが、10日ぶりくらいになると、全く泡立ってくれないのだ。湿った髪はヒマラヤの風にさらされてすぐ冷たくなり、手もかじかんでくる。それでも無心で集中して洗い、再びコップでちびちびお湯をかけていく。ここで心を乱し「面倒くさいぜー」などと言ってたらいごとお湯を頭にぶちまけると、後で後悔することになる。ぬめぬめした頭をタオルで強引にふきながら空しい気持ちを味わう。あせらずちびちびリンス無しが基本だ。
 久々に頭がすっきりした。みんなも「シャンプーの時期」と判断したようで、風の合間をついて洗っていた。
 今日はBCに続いてABCでも壊れたテントの入り口ジッパーを、プライヤー片手になおした。力を込めて息を止めるとすぐに苦しくなってぶっ倒れそうになる。こんなどうでもいいことをかかねばならないほど、実は何もしていない。これではカトマンズの安宿に沈没している旅行者と変わらないではないか。
 
 今回は昨日に続くシリーズとして「薄い空気の中で何を聞くか」について書こう。
 隣のテントにはマルコがいる。彼のテントからはいつも(今も)ラップが流れている。音漏れというよりはもっとはっきり聞こえるので恐らくスピーカーを使っているはずだ。3日にいっぺんくらいはボブ・マーリーが流れてくる。ボブ・マーリーは嫌いじゃないので(昔エチオピアに行ったとき飲み屋では必ずボブ・マーリーかボブ・マーリーの妹の曲が流れていた)許せるのだが、一日の大半を占めるフランス語ラップはそんなに心地いいとは思わない。だいたいラップで気が休まるなんて聞いたことがない。
 ぼくの左隣に62歳のロイのテントがあり、ぼくの右隣がマルコなのだが、一度、ロイがちょっとした剣幕でテントの中から怒鳴ったことがあった。「マルコ、うるさいぞ!」聞こえなかったか無視したか不在で音楽だけ鳴っていたのか知らないが、マルコのテントからの反応はなく、それ以来ロイは何も言わなくなった。チョモランマの麓で孫くらいの年齢の若者と共同生活しなければならないロイの苦労を知るというものだ。
 長い旅行、特に英語の中で生活していると邦楽が聞きたくなる。P2Pのときがそうだった。今回は2ヶ月とそんなに長くないので、邦楽は一つしか持ってこなかった。ぼくが日本をでる直前に発売された宇多田ヒカル氏のニューアルバムである。(少し恥ずかしい・・)。他にもってきた音楽を羅列していく。これらは全てMDに落としてある。

 トレーシー・チャップマン「クロスロード」(ティンリーからBCまでの荒涼とした大地によくあった)
 ジョニー・ミッチェル「ブルー」(お気に入りアルバムの一つ。旅行には欠かせない)
 アストル・ピアソラ「ライブ」(前もどこかで書いたがギドン・クレーメルが演奏したものが最高。旅行前のごたごたで見つからずこれで妥協)
 パット・メセニー「スティル・ライフ」(古典だが、夜のお供に。パット・メセニーは当たりはずれがあるけど、スティル・ライフは好き)
 映画キャラバンのサントラ(集中できるかなと思って)
 NINA SIMONE AND PIANO!(素晴らしい演奏です)
 「オセアニア」(知り合いからもらったものだけど、想像以上に良かった)
 
 まだまだ持ってきているものはあるが、電源がなくなってきたので、このへんでやめる。外国人にもジョニー・ミッチェルなどはまだ人気があり、朝、食堂テントで流れていることもある。クラプトンも山で聞くと飽きなかったりする。日本人の年取った登山家や旅行者に出会うと、そのほとんどの方はは井上陽水か中島みゆきを持っていることが多いが、郷愁が漂いすぎて涙をそそり、ぼくには向いていない。「少年時代」なんて流れてきたらすぐ帰りたくなってしまう。
 若いシェルパの中にはニューヨークのクラブミュージックにやたら詳しい奴がいたり(ロプサンです)、べたべたのインド系ネパール音楽が好きだったりと好みも様々。音楽からまた新しい世界も見えてくる。
 さて今晩は何を聞こうかな。
 *出発前にCDなどを下さった皆さんありがとうございました。聞いてますよー。
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2001年04月27日(金)
■ノースコル再び
 
 本当は今日ノースコルに一泊しC2を目指す予定だったが、シェルパが上部キャンプの整備やルート工作をするためノースコルに泊まっているため、ぼくらは食料やダウンスーツなどをノースコルに運びあげてまたABCに戻ることにした。
 今回のノースコル往復は天候が悪く、風が強くて苦戦したがなんとかノースコルに荷を運び上げてABCまでまた戻ってくることができた。前の晩に雪が降ったため、アイゼンの効きが悪く、足場が崩れやすくて、ノースコル直下の急な斜面には本当に辟易させられた。あんなに呼吸をしなくてはならなかったのは生まれて初めてではないか。何度息を吐いて吸っても、呼吸が整わない。ノースコルにやっと着いてくれたときには、酸欠と強烈な太陽の光で視界が青白くぼやけていた。
 ノースコルには新しい円形のドームテントがシェルパの手によって立てられていた。マウンテンハードウェアの新しいもので、外見は丸いジャングルジムのようだ。中は雪が削られて円形のベンチができており、真ん中にはプロパンガスとコンロが置いてある。ノースコルまで登るヤクなんていないから、シェルパの誰かがこの大きなプロパンガスを運び上げたのだろう。このドームテントは半ばシェルパの聖域と化しており、上部キャンプのルート工作をするシェルパの休みどころになっている。
 テント内は暖かく、面識のない一人のシェルパとチベット人のカサンがいた。ここにきて新しく3人のシェルパが加入した。名前はまだ覚えていないが、そのうち2人はすでに上部キャンプで働く優秀なシェルパだった。素人シェルパとは顔つきが異なっている。彼らからボウルにお茶をもらい、飲んだ。16歳のパサンの代わりにノースコルまで来て作業しているチベット人のカサンはいつもの笑顔が少しばかり減っていた。後から入ってきたガイドのアンディーが「チベット人としてはじめて頂上に行くか?」と冗談交じりにカサンに言うと「頂上にはいかない。チョオユーは簡単だけど、チョモランマはだめだ。いかない。」真意はわからないが、カサンにとってもチョモランマの頂は特別なもののようだ。シェルパの彼が言うのだから間違いない。
 上部キャンプはどんどん整いつつある。今シーズンのチョモランマのサミットデイは例年より早まりそうである。天気もそんなに悪くない。しかし、予想は予想。ここからあらゆることが崩れだすこともあるので、油断は大敵だ。
 
 ノースコルからの帰り道、太陽はいつもより早く姿を消した。南側から厚い雲が空を覆ったのだ。ぼくはフィックスロープを腕に巻き付け滑らないようにしながら、おぼつかない足取りで斜面を下っていった。時々摩擦で嫌な臭いがした。登りは苦しめられた柔らかい雪も、下りは深く足が埋まりそんなに慎重にならずとも足を踏み出せた。
 時折、後ろを振り返ってチョモランマの頂を見た。ノースコルまで来てもまだまだ想像できない神の領域。黒い雄壮な岩肌が微動もせずそびえている。果たしてあそこまで行けるのか。
 この前はじめてノースコルに行ったときよりも消耗していない。夕食をきちんと食べられたことがそれを証明している。明日一日休養して、明後日三度ノースコルに向かう。今度こそノースコルで1泊し、次にC2(7500m)を目指す。できればC2でも一泊し、C3(7900m)にタッチしてABCまで戻る予定だ。そしてさらにBCまで戻り、4,5日の休養のあと、いよいよ頂上を目指すことになる。
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2001年04月28日(土)
■本番はこれからだ
 
 今日は風無し雲なし晴天の休養日。チョモランマの頂も青空にくっきりと浮かび上がっている。このような日にこそ頂上に立てるのだ。エレン、オーウェン、マルコの3人がノースコルに向かい一泊、そしてC2に向かう。ロイもまた先日到着できなかったノースコルを目指して出発した。
 BCに戻っていたロバートとエヴェリーンがABCに戻ってきた。明日ぼくらと一緒にノースコル1泊、C2を目指す。ラッセルはラサからBCに戻り、酸素ボンベなどの調整を行っている。このところBC、ABC、上部キャンプとのあいだで無線のやりとりが激しく行われていた。タクティクス的にも重要な時期にきているということだろう。今回の遠征も折り返し地点に近づいている。
 8300mのキャンプ4に行っていた主要シェルパ、ロプサン、プルバ、カサンらがABCに戻ってきた。8300mで作業をするなんて想像できない。帰ってきた彼らはいつもの笑顔で挨拶してくるが、彼らのいた場所は生命と最もかけ離れた場所だ。本当によく帰ってきてくれたと思う。ありがとう。
 明日からの上部キャンプ行に備える。ノースコルで1泊、C2(7500m)1泊でC3(7300m)に向かって行けるところまで行く。そしてABCまで戻り、次の日BCへ。これが近々の予定だ。つまり5月1日か2日までは音信不通となる。 
 本番はこれからだ。
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2001年04月29日(土)
■最後の順化開始
 
 ノースコル泊。今までで一番のスピード。ABCからノースコルまで3時間30分くらい。無風快晴であまり息切れもしなかった。テントはキロン、ハイメと一緒。3人だと少々窮屈。インスタントラーメンに乾燥させたヤクの肉、トマトスープ、キロンが持っていた温めるだけの鶏肉を少し食べる。皆、ダウンスーツを着て分厚い寝袋にくるまるため、もこもこ。ぼくもまねをしてダウンジャケットにダウンパンツを着て横になったが、夜中暑すぎて起きてしまい、ダウンジャケットを脱いだ。さすがに7200mだと熟睡できず、何度も起きた。頭痛などは無し。
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2001年04月30日(月)
■7500mで寝る
 
 6時30分頃に起き、8時前に行動開始。ABCからノースコルまでと違い、ダウンジャケット、ダウンパンツ着用。最初は暑くてなぜみんなダウンスーツを着るのかわからなかったが、C2への急な斜面に入る頃には風が強くなり、急激にに寒くなった。斜面きつすぎ。猛烈に疲れる。ノースコルから上はそんなに急な斜面は無いと誰かが言っていたがうそだ。ときに垂直に近く感じる。途中へばりすぎて声も出ない登山者を一人抜く。風が強すぎて、サングラスからゴーグルに代えようかと思ったが斜面の途中でザックをおろしたらそのまま動けなくなりそうだったのでやめた。この頃から強烈な紫外線で目がおかしい。ちかちかして、紫色の斑点が視界にでる。もっと強力なミラーのサングラスが必要だ。痛くはないので雪目ではないと思うが、視力が弱まっていく。
 ノースコルからC2までが最も長く、つらいと聞く。その通りだった。最後の長い斜面は這い蹲るように、フィックスロープの継ぎ目では本当に這い蹲ってユマールを外し、付け替え、ノックアウトされたボクサーがゆるゆる立ち上げるように動いた。体力も限界に近い。強風の中、2,3歩登っては止まり、最後に辿り着いた斜面の中のほんの小さな平坦な部分がC2だった。テントも3張りが肩を寄せ合ってやっとのスペースである。風に揺られ、今にも吹き飛びそうだ。ここが7500mである。圧倒的な高さ。
 テントに飛び込むように潜り込むと何もする気が起きない。キロンは最後の斜面で体力を使い果たし、すぐに寝袋にくるまって目をつむった。ハイメは水を作って、さらにスープを作り、わけてくれた。しかし、スープを飲んだ後、大量のげっぷをし、気分を悪くして吐きそうになった。垂直に座れなくなり、肩で息をしている。アンdィーに下山を薦められるもかたくなに拒否。上からルート工作をしていたシェルパがちょうど降りてきたので、一緒に降りることができたがしなかった。テントのジッパーを両側あけて空気を吸い、少し回復したが頭痛もかなりあるようでつらそう。
 ぼくは頭痛もなく、スープとプリングルスのポテトチップスを食べた。あまり食べると胃がおかしくなりそうなので少しでやめる。はじめての高度7500mにしては、倦怠感だけで特に調子は悪くない。ダウンパンツをはいて寝る。何度も何度も起きる。C3で寝るときは酸素を使うかもしれないので、事実上C2で寝るのが一番つらいとラッセルが言っていた。なるほど眠れない。それでも少し寝て、朝になった。
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